811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。
聖者はなにものにもとどこおることなく、人間的思考の運動(愛⇔憎)の運動を制し、愛することもなく、憎むこともない。それらを手放しているので、悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。そのように聖者は、人間的思考の運動(快⇔不快)に汚されることなく中道を歩むのである。
コメントを残す